章光堂について

◎ 章光堂の歴史

 章光堂は、1922年2月に愛媛大学の前身である旧制松山高等学校(第12高等学校として1919年4月設置 1950年3月閉校)の講堂として現在地に建設されました。その後、1949年新制大学創立の際に他の旧制諸学校とともに愛媛大学に包括され、愛媛大学文理学部講堂となり、1963年に愛媛大学教育学部附属中学校が持田地区に移転したことを機に附属中学校講堂となり、現在に至っています。

 この建物は、1978年愛媛大学保存建物に指定され、1998年9月には国の有形文化財として登録されました。章光堂は、大正期を代表するヨーロッパ風のモダン建造物であり、屋頂に左右対称の塔を持つルネサンス様式の外観とギリシャ・ローマ時代のトスカナ様式の円柱からなる車寄せを配置した複層の木造建築物で、今なお、各種の学校行事、同窓会の行事等に活用されています。

 また、旧制松山高等学校は、桧垣徳太郎(郵政大臣)、宮本顕治(日本共産党委員長・議長)、塩崎潤(経済企画庁長官)、菅太郎(衆議院議員)、有吉義弥(日本郵船社長)、上枝一雄(三和銀行頭取)、稲葉秀三(産経新聞社社長)、露口達(日清紡績社長)、高橋吉隆(アサヒビール社長)、田坂輝敬(新日本製鐵社長)を始め著名な政財界人、芝不器男(俳人)、池原季雄(法学者)、中村草田男(俳人)、奈良本辰也(歴史学者)、早坂暁(作家・脚本家)、西垣脩(俳人)を始め著名な文化人を輩出し、章光堂は同窓の蛍雪のシンボルとして、市民の懐古の遺産として多くの人が訪れています。


◎ 章光堂の不思議



1. 誰が「章光堂」と名づけたの?

 第2次世界大戦が終結するまで、章光堂は単に「講堂」と呼ばれていました。大正時代、あるいは戦前の松山高等学校の校内配置図を見ても「章光堂」ではなく、「講堂」と記載してあるだけです。戦争中の松高のことを知る人も「講堂」と呼んでいたと証言しています。
 章光堂の入口に「章光堂 昭和丁亥年 能成」と書いた額が掲げてあります。丁亥(ていがい)の年は20世紀においては昭和22年(1947年)しかありません。つまり、「章光堂」という名前は、戦争終結後1、2年のうちにつけられたものです。
 誰が、どういう意味を込めて「章光堂」と名づけたのでしょうか?
 額のいちばん左端に「能成」の名前が認められます。能成とは、哲学者、教育者として著名な安倍能成(あべよししげ)のことで、この額が揮毫された前年(1946年)は幣原改造内閣で文部大臣を務めていました。安倍は戦前・戦後を通じて一貫した自由主義者でした。まだ空襲による焼け跡が生々しく残っていた時代に、安倍自身が自由と平和の思いを込めて「章光堂」と命名し、自ら揮毫したのかも知れません。しかし、それを確証するものは何も見つかっていません。

2. 誰が「章光堂」を作ったの?

 章光堂は、愛媛大学の前身の松山高等学校講堂として大正11年(1922年)2月に現在地に建設されました。現在も、外部・内部ともに建設当時そのままの姿で、堂内に入ると荘厳で落ち着いた雰囲気にひたることができます。
 この美しい建物は、誰が設計し、誰が作ったのでしょうか?
 鳥海他郎という当時の文部技官が設計したと推定されていますが、残念ながら、その確たる記録はいまでは残っておりません。おそらく戦争中の空襲により消失したものと考えられます。
 章光堂は、美しい外観を持った大規模な木造建築(延床面積700㎡)であるだけではなく、木造技術史の面からも貴重とされています。屋根組については当時の洋小屋の構造工学を基に建設されました。木造建築としては丁寧に作られており、当時の愛媛の職人の生真面目さ・良心がうかがわれます。